いとなみ研究室

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株式会社 天洋丸

とどけ、漁業の魅力。発信力の礎を築いた『天洋丸・竹下敦子さん』

取材 / 写真

取材

天洋丸 竹下敦子さん

 

元シティガール、雲仙市南串山町で「天洋丸」の名を広める

雲仙市南串山町を拠点とする株式会社天洋丸は、まちの未来を明るく、海の仕事をおもしろくする企画や商品であふれている。

おもしろい“こと”を起こす鍵となるのは、やはり“ひと”。

アイデア大将・竹下千代太さんや、期間限定の漁業インターンシップ「一年漁師」参加者など多くのキーパーソンがいる中で、やっぱり天洋丸の魅力はこの人無しでは語れない。千代太さんの妻・竹下敦子さんである。

横浜という都会で生まれ育った敦子さんが、なぜ長崎の雲仙市へ? なぜ漁業の世界へ?

天洋丸の母・敦子さんのこれまでを伺った。

夢中になれるものがなかった。周りの個性に憧れていた子ども時代

まずお聞きしたのは子ども時代の話から。横浜の地で、両親と弟の四人家族で暮らしていた。

竹下「私はとにかく大人しい子でしたね。授業中に手を挙げて発表することもしなかったです。何をするにも普通の子。小学生の時は運動も勉強も“中の上”って感じでした」

現在の敦子さんのイメージと比べると、ちょっとだけ意外な幼少期。

天洋丸 竹下敦子さん

 

親に言われて習い始めたピアノ教室も、レッスンの時間が苦痛で苦痛で仕方なかったそう。一緒に誘った仲良しの友達はみるみる上達し、学年で一番ピアノが上手になった。誘ったほうの敦子さんは、上達しないし身が入らない。そのまま長くは続かずに辞めてしまった。

他にも、習字をやってみたけど続かなかったりと、苦い思い出がぽろぽろ。

竹下「これがやりたい!っていうのをあんまり言えなかったんですよね。バレエ教室を見て、ああいいなぁ、なんて思っても親には習いたいって言えないような子でした。その反動で大人になってから好きなことをどんどんやるようになってますけど(笑)」

何かをやりたくても上手くできない、気持ちを言葉にできない。一方そんな敦子さんの周りには、個性あふれる同級生がたくさんいた。

天洋丸 竹下敦子さん

 

小学校六年生の時、特に同じクラスのみんなはいろいろな趣味を持っていたそうだ。

竹下「教室の後ろの黒板に『マニア商店街』ってコーナーがあったんです。みんな自分の好きなものや趣味について、自由に書き込んでいるんですよ。でも私にはこれと言って趣味もないし、ハマっているものもなくて。みんなすごいなぁって思ってました」

相撲が好きな人、切手が好きで集めている人、野球なら任せろ!という人。クラスのみんなは個性的で、敦子さんは自分と対比しながら憧れの気持ちを抱いていた。

10代になり、プロレス愛が熱を帯びる

そんな敦子さんも、成長するにつれて頭角を現し始める。中学2年生ぐらいから背が伸びてきて、気づいてみたらクラスでも二番目ほどの身長になっていた。

竹下「走ってみたら『あれ、私が一番速かった』なんてことになったり。他にも体育の幅跳び、体力テストの握力などいろいろな場面で急にグーンと数値が伸びたんです。その頃からなんだか自信がついてきましたね」

そして、夢中になれるものがなかった敦子さんにも、熱く魅了させてくれる趣味が生まれた。

竹下「昔からプロレスが好きで、小学生の時から弟と家でプロレスごっこをして遊んでたんです。中学生になると本当にすごく好きになってきて、ブルースリーの映画に衝撃を受けたり、格闘技の本を買ってシャドーボクシングしたり……(笑)。筋肉に対する憧れみたいなもので、鍛えたい!強くなりたい!って思っていたんですよね」

天洋丸 竹下敦子さん

「よし、四の字固めをやってみよう」なんて言いながら弟とプロレス技の練習に励む日々。部屋の押し入れに貼ってある藤波辰爾のポスター、プロレス雑誌の切り抜きで趣味として楽しむこともあれば、自作の筋トレ器具で自分自身を鍛えることも。敦子さんはまさに“熱中”していた。

好きなものをいきいきと語る敦子さんの姿は、当時も友達からは印象深く映っていたのかもしれない。

 

大根踊りに憧れて。進路は生き物に関する道へ

高校に進学し、理系に進んだ敦子さん。生物の授業が好きで、進路は理学部や生物学部に行きたかったそう。

竹下「第一希望は東京農業大学でした。理由は、TVでここの伝統芸『大根踊り』を見たことがきっかけで(笑)。すごい衝撃だったんです。わあ、大根踊りを間近で見てみたい!って思ってました……!」

大根踊り……!?

突如飛び出したワードのパンチ力。思わず調べて動画を見てみたが、確かに、熱く力強い応援団の演舞として大根踊りは存在していた。東京農業大学の名物として現在もなお有名とのことらしい。

いやしかし、それで「進学したい」とまで考える敦子さんのハマりっぷり、相当なものである。とにかくこの時期の敦子さんは、“力強い何か”にときめいていたのだろうか。

高校に進学し、理系に進んだ敦子さん。生物の授業が好きで、進路は理学部や生物学部に行きたかったそう。

竹下「第一希望は東京農業大学でした。理由は、TVでここの伝統芸『大根踊り』を見たことがきっかけで(笑)。すごい衝撃だったんです。わあ、大根踊りを間近で見てみたい!って思ってました……!」

大根踊り……!?

突如飛び出したワードのパンチ力。思わず調べて動画を見てみたが、確かに、熱く力強い応援団の演舞として大根踊りは存在していた。東京農業大学の名物として現在もなお有名とのことらしい。

いやしかし、それで「進学したい」とまで考える敦子さんのハマりっぷり、相当なものである。とにかくこの時期の敦子さんは、“力強い何か”にときめいていたのだろうか。

 

天洋丸 竹下敦子さん

 

進路希望の理由はもちろんそれだけではなく、当時はバイオテクノロジーブームで、敦子さんも興味を抱いていた。農芸化学や遺伝子操作でさまざまな作物を育てることなどに憧れがあった。

竹下「でも、親からはお金がないから国公立を受けなさいって言われて。理学部は偏差値が高すぎて無理だし、私は英語が壊滅的にできなかったんです。なので、国公立で英語が無くても平気なところって言えば、東京水産大学だったんですよね。魚だけど、まあ同じ生き物だしいっか、という感じで(笑)」

結果的に、進路は東京農業大学ではなく東京水産大学へ進学。このキャンパスが、竹下千代太さんとの出会いの場所である。千代太さんは敦子さんの2つ歳上だが、千代太さんが浪人生活二年間を経て同じ学年として入学する。その二年のズレが偶然にも二人を引き合わせた、のかもしれない。

とは言っても、二人がお付き合いするのはまだまだ先。敦子さんにとって、千代太さんはたまに食堂で顔を合わせたり、共通の友人がいたりするような、知人の一人でしかなかったそうだ。

 

天洋丸・竹下千代太さん

竹下「私の友達がカッター部と仲良かったんです。夫とはそこで知り合っていて。カッター部って、大学のメインの場所に“全国大会出場!”とか書いてあるような花形の部活だったんですよね。友達はキャーキャー言ってましたけど、私からすると『いつもつるんでるなぁ』ぐらいに思ってました(笑)」

理系の大学ということもあって、男女比率は圧倒的に男子が多く、女子は本当に少なかったのだそう。

特徴的なのは寮生の繋がりの強さ。大学生らしく、お酒のコミュニケーションも充実していた。特に学園祭は盛り上がっていたようだ。

竹下「学園祭の時は寮生酒場ってのがあって、寮の中が飲み会会場みたいになってましたね。普段は寮生以外入れないので、行きたがっていた友達に付き合って私も行ってました。朝方まで飲んでそろそろ寝ようかって時に、私が『コンタクト外したいから誰か湯呑み持ってきて!』とか言って、先輩に言われてイヤイヤ持ってきてくれたのが夫でしたね(笑)」

学生時代の敦子さんと千代太さん、そして楽しげな友人たちとのやり取りが目に浮かんだ。

結婚後、さまざまな土地で子育てをする日々

敦子さんは大学卒業後、環境コンサル系の会社に就職した。社長が東京水産大学のOBということもあり、同大学卒の社員がたくさんいたそうだ。例えば、行政が何か公共事業をする際に作成しなければならない環境保全計画について、外注先として調査や資料収集、計画書・報告書等の作成を担っていた。

千代太さんと再び会うことになったのは社会人二年目の頃。学園祭に遊びに行って再会し、久々に一緒に飲んだり、今度また遊びに行こうという流れに。

竹下「夫は一年間乗船実習に出ていたので、私たちより卒業が一年遅いんですよね。友達が同じ船に乗っていたので、出発のお見送りに行って、その時に一緒に写真を撮ったりしたかな」

天洋丸 竹下敦子さん

 

竹下「大学時代のことはあんまり印象になくて。長崎出身と聞いて、てっきり島育ちなのかと思ってました。あと、兄弟が四人いるなんて大家族じゃん!なんて思ったりしていましたね」

お付き合いを始めて、敦子さんが26歳の頃に結婚。その年の11月に結婚式を挙げた。

しかし千代太さんの仕事上、それから転勤で各地を転々とすることに。式後の3月末には千代太さんに異動の辞令が出て、敦子さんは退職。夫婦で山形へ引っ越すことになった。

山形のあとは仙台、そして名古屋と場所を移しながら二人の子どもに恵まれる。子育てをしながら、さまざまな仕事や習い事を経験して過ごしていた。

竹下「名古屋の時に三人目の子を妊娠したんですよね。長女が幼稚園の年長になる手前でした。周りから『お受験しないの?』とか聞かれるようになったんです。住んでるところが文教地区だったので、大半はお受験で私立小学校に行くようなところで……。また転勤があったらいずれ転校するだろうし、なんか大変よねって感じていました」

また、その当時は千代太さんも仕事がハードな時期。労務提供として、取引先の新店舗がオープンするとなれば、そこに商品を置いてもらうために開店のお手伝いに行ったりと、休日にも駆り出されることは多かった。

天洋丸 帰ってきた竹下さん

竹下「それぐらいの時期から、毎年3月くらいになると夫が『どうしようかな……。実家に帰ってもいい?』って聞いてくるんですよ。仕事もきつそうだし、毎年『もし異動になったら帰ろうかな』とか言われるのもなんだか面倒くさくなってきちゃって(笑)。もうサラリーマン辞めて帰ってもいいんじゃない?って言ったんです」

敦子さんの後押しがあり、このタイミングでUターンを決意。家族四人と、お腹には三人目のお子さんがいる状態で、雲仙市南串山町へとやってきた。

「小売り」と「発信」で天洋丸の名を広めた立役者

南串山町へと移住し、しばらくは出産や子育てをしながら暮らしていた敦子さん。どのようにして天洋丸と関わるようになったのだろうか。

竹下「最初というか、来る前から思ってたんですけど、私は一体何をするんだろう?って(笑)。まき網の仕事が全然想像つかなくて。夫は夜中に沖へ出て昼間は寝ているから、私とは真逆の生活なんですよね。私の仕事は?って聞いても、『仕事は自分でつくるもんだろう』みたいな感じで(笑)」

地域の集まりごとにもあまり関わることなく、「これでいいのかな?」という日々が続いた。

それから敦子さんが手掛けるようになったことが、「通販による小売り」と「ブログでの情報発信」である。

天洋丸 竹下敦子さん

 

ある時、お中元やお歳暮で知り合いに煮干しを送ったら、「欲しい、買いたい」という声があった。

竹下「送るにもただパックしただけじゃつまらないから、いつ獲れたのか、どの辺りで獲れたのかを夫に聞くなどして、商品にその情報とレシピを付けて送り始めました。あとは2003年からホームページを作って、天洋丸の紹介を載せたり、一言ブログで発信したり。そんな流れから、インターネット販売に発展していきましたね」

ところで、「エタリ」という言葉を聞いたことがあるだろうか?

エタリとはカタクチイワシの地方名。エタリの塩辛とは、橘湾で獲れた新鮮なカタクチイワシを塩とあわせ樽に入れ、稲ワラをかぶせて重石をして熟成させた食品です。引用:天洋丸ホームページ「エタリの塩辛とは?」より

敦子さんは、南串山町のふるさとの味「エタリの塩辛」についてホームページの中で紹介した。

竹下「エタリの塩辛について普及活動をしていこうってことで、送料だけ負担してもらって希望者に無料発送したりとか、宣伝・発信していたんです。それがいろいろと繋がって、農文協の“故郷に残したい食材”や、スローフード協会の“味の箱舟”登録にまで発展して。それもこれも、ホームページで発信していたおかげかなって思いますね」

そのような動きを受けて、2005年に「エタリの塩辛愛好会」を発足するなど、地域の特産品をPRするために活発な取り組みをするようになる。敦子さんはまさに、現在の天洋丸が展開するEC販売事業の基礎を築き上げていった人物なのだ。

天洋丸 竹下敦子さん

 

敦子さんはホームページで発信する以上、自分の目で見て耳で聞いたものを取り上げていきたいと考え、足で情報を取りに行くように。

水揚げされた魚だけでなく、知り合いの畑で地元産ジャガイモについて取材したり、郷土史に載っている昔の写真を提供してもらって聞き取りをしたりなど、ホームページのコンテンツ充実のために奔走した。

県外からやってきた敦子さんだからこそ、探究心や好奇心のままに南串山町に眠る魅力をどんどん発掘していき、地道に発信し続けた。その積み重ねが、現在の天洋丸に通ずる情報発信の文化に受け継がれているはずだ。

面白いアイデアの源泉はどこにある?

天洋丸から生み出される、キャッチーな企画やプロダクト。そんなおもしろい“こと”の源泉は、竹下夫婦の何気ない会話の中にある。例えば、コロナ禍に誕生した期間限定の漁業インターンシップ「一年漁師」は、天洋丸の看板的な取り組みの一つ。

天洋丸 一年漁師と竹下敦子さん

 

竹下「一年漁師の前はほら、『お父さん、貸し出します』みたいな……」

ここですかさず、千代太さんから「『お父さん、預かります』でしょ」とツッコミが入る。

一年漁師の企画を考える以前、定年になったお父さんが家でゴロゴロしているといろいろ言われるので、天洋丸が漁師として預かりますよ、というコンセプトの別企画「お父さん、預かります」があったそうだ。(このネーミングは他社の企画と似ていたので辞めたのだそう)

このように、普段の日常生活の中で「これ何か使えるかな」「これ面白そう!」といったものを買ってきたり、調べたりしている竹下夫婦。

職業病なのか、身の回りにある情報全てを仕事にくっつけられないか、何かのヒントにならないかという視点で見るのが癖になっているようだ。

竹下「夫はとにかく思いつきでポイポイ言うんですよ(笑)。それはどういうことだ、じゃあこうしようって、自然とそんな会話になってますね。私は紙に書き出してみないとわからないタイプですが、食に関するアイデアは頭に浮かんだものをポンポンと出していきます。

 

天洋丸 竹下敦子さん

 

『ひとまずそれでチラシを作ってみて。とりあえず商品として形にしてみよう』と夫はテンポよく進めようとしますが、突飛なアイデアは一旦整理しないとよくわからないので『もうちょっと考えてからいいんじゃない?』と提案する感じですね」

二人とも普段からアンテナを貼りながら、アイデアをポンと出しては「いいね!」と盛り上がっていく。

現在は、発信したいコンテンツ・アイデアをチラシや資料に落とし込んでくれる存在が、娘のエリさんなのだ。そのたたき台を元に、また敦子さんと千代太さんとでディスカッションしながら、加筆修正をしてカタチになる。

日常の中にある実験的な会話が、そんな化学反応を起こしているタネらしい。

竹下「今までの取り組みは、人材不足のような“課題”が何かしらあって、その度にどうすればいいかなって考えてきたものなんですよね。商品開発とか企画っていうと表に出ているものをイメージすると思いますが、それ以外にも見えないところでいろいろとやっているんです」

千代太さんの発想と敦子さんの好奇心が連鎖して、天洋丸の可能性が広がっていく。敦子さんは、アイデアがまちを超えて世の中に渡っていく過程の、一番最初に起こる波源なのであった。

 

天洋丸 竹下敦子さん

天洋丸なかまの記事は下記からご覧になれます。 天洋丸

プロフィール

竹下 敦子

会社情報

会社名:
株式会社 天洋丸
所在地:
〒854-0703 長崎県雲仙市南串山町丙9287-3 ( 天洋丸水産加工場・事務所 )
Tel:
0957-76-3008
Website:
https://www.tenyo-maru.com/

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