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株式会社 天洋丸
船の灯りで活路をひらく。『株式会社 天洋丸』の冒険譚
東京から南串山町にUターン。竹下千代太さんが乗った天洋丸の航路を辿る
雲仙市南串山町で漁業・養殖・水産加工品の製造販売などを手掛ける株式会社天洋丸。話題を呼ぶキャッチーなアイデア商品や、漁業課題である人材不足を解決する企画力で、一目置かれる存在だ。
代表の竹下千代太さんは、南串山町で生まれ育ち、進学と就職で地元を離れる。そして29歳で結婚し、妻・竹下敦子さんら家族と共に、36歳になる年で南串山町に帰ってきた。 今回の記事では、天洋丸の漁のこと、発信力のこと、人材のことについてじっくり解剖!アイデア大将・竹下さん率いる天洋丸の物語をご堪能あれ。
プロローグ:原動力は、漁師への憧れ
天洋丸の社員・インドネシアの技能実習生・関連会社の「おおいた天洋丸」へ出向中の社員・乗組員などなど、全員合わせて数えるとメンバーは総勢57名。
しかし、元々天洋丸は竹下さんの父が個人事業主でやっていた事業であるため、かつて社員は0人だった。竹下さんがUターンしてから、徐々に事業や組織の規模は大きくなっていった。
竹下「会社にいるときは、漁師としてではなく、縁の下の力持ち的な仕事をしていました。船員さんのアテンドや、水揚げに立ち会うなど、直接自分が魚を獲るプレイヤーではなかったんです。ただ、目の前でその仕事ぶりを見ていると、面白そうだなって感じていましたね」
同時に、“地元に帰れば、自分が沖に出て魚を獲れる”という思いも。地元で好きなことを自由にやってみたい。漁師として働く自分の姿をイメージしては憧れが募っていたそうだ。
そして、2001年。妻・敦子さんの言葉に背中を押され、南串山町へ家族でUターン。今度は天洋丸の乗組員として、海に出始めた。
乗組員を経て、船頭へ。流れを変える攻めの一手
天洋丸の漁師として再スタートを切った竹下さんは、さまざまな船に乗って経験を積んでいった。
ここで、天洋丸が橘湾内で操業している「まき網漁業」について少しだけご紹介。
天洋丸は主に、まき網漁でにぼしの原料となるカタクチイワシを漁獲している。
まき網漁業とは、灯りに集まった魚の群れを大きな網でぐるりと囲み、網をしぼって小さくしていきながら漁獲する漁のこと。複数の船がそれぞれ明確な役割を持っており、チームワークが重要となる。
ホームページには、まき網漁業で沖に出る際に組んでいる「天洋丸船団」の布陣について解説されている。
例えば、魚網を積み、投網や揚網を行う天洋丸が「本船(網船)」。その他、船に搭載した魚群探知機で魚群を見つけ、漁場を探索し、集魚灯により魚を集める「灯船(ひぶね)」や、絞り込んだ網からで漁獲した魚を汲み上げて運んでいく「運搬船」、そしてそれらの役割を2つ兼任している船などがあるそうだ。
漁の様子はYouTubeチャンネルでも視聴することができる。
竹下さんは船団の中で転々といろんなポジションを経験した。
竹下「父は灯船に乗って、漁撈長(※)を務めていました。でも、僕も自然と要領がわかるようになってくると、発言力がだんだん増していきました。当時はまだ会社でもないし、親子だから父親にも言いやすくて、『こうした方がいいんじゃないのか?』とか漁について意見するようになってきたんです。そうしていくうちに、『今日からお前が漁撈長だ』とか明確な世代交代はないけれど、実質的には僕が主導権を握っていたので、いつの間にか漁撈長になってましたね」
(※)漁撈長(ぎょろうちょう)…漁船で漁獲作業全般の指揮をとる者。船団長。
しばらくは一人の乗組員として漁に参加していたが、探索船(灯船)兼運搬船である第十八天洋丸の船長の席が空いたので、その役目を竹下さんが担っていた。
初めは満足いく漁獲量には至らなかった。機械も頻繁に故障したり、エンジンが止まったりなどトラブルも多く、業績は赤字。
黒字転換したのは、竹下さんがUターンしてから5年ほど経った頃だった。
竹下「その頃僕も30代で、乗組員は今より若かったから無理がきく年齢でした。海がシケでも漁に出て獲ってましたね。シケの時は他の船が出ないからたくさん獲れるし、値段も高くなるんです。2005年には、補助事業で思い切って借金。計器類をいくつか導入して、段々と上向きになっていきました」
船長の役目を担うようになってから、漁に出るか出ないかを判断するような日々の舵取りはもちろんのこと、天洋丸の針路を左右する大きな決断も下した竹下さん。この設備投資が船長として牽引していくための一手目となり、水揚げ量も増えていったそうだ。
天洋丸は徐々に業績を伸ばしていき、社員寮を建てたりなど規模が大きくなっていく。ついに個人事業主という形では収まりきらなくなり、天洋丸は2015年より株式会社化したのだった。
天洋丸の「発信力」に注目!
天洋丸が法人化し、着実に漁獲量を増やしながら規模を拡大していく中で、その波を後押ししてきた取り組み。それは、「発信」である。次々と打ち出されていくアイデア商品や話題性のある企画が世に届いていくのは、たゆまぬ情報発信の積み重ねがあるからこそ。
イベント出展情報や日々の取り組みを発信するブログ、魚の捌き方講座から技能実習生の様子までポップに伝えるYouTubeチャンネル、商品コンセプトや誕生ストーリーが綴られた通販ページ、情報をいち早くアップしながらもファンを増やしていくInstagramなど、このチャネルの多さはただごとではない…!
もちろん、メディアに取材された記事・ニュースがスマホやお茶の間のテレビに流れてくることもしばしば。
実は、天洋丸の情報発信の文化は、元を辿れば竹下さんの妻・敦子さんが築き上げてきたということが分かってきた。
竹下「地元に帰ってきてすぐはまだ子どもが小さかったこともあって、ホームページを作って発信してましたよ。当時はまだインスタとか無かったのでブログが主流でしたもんね。妻が今日の出来事を毎日ブログに載せてたんです。だいぶ経ってから、娘が自分の小さい頃のことが書かれた記事を読み返したりしてましたね(笑)。懐かしいことがいろいろ書いてあります」
過去のホームページを覗いてみると、天洋丸のあれこれを丁寧にまとめてあることが一目で伝わってくる。そして、敦子さんの視点で書き溜めていた「管理人の一言日記」は、2003〜2021年に至るまで様々な媒体に形を変えながら敦子さんが継続してきた。
日常のこと、漁業のこと、南串山町のまちのこと、お子さんが生まれた時のこと。他愛もないつぶやきと共に、貴重な当時の記憶・記録として今も残っている。
そしてその一言日記は、2021年から竹下夫妻の長女・エリさんによりInstagramを中心とした発信スタイルへと引き継がれている。漁師体験の様子や天洋丸の取り組みを、ビジュアル的にも分かりやすく、よりスピーディに届ける媒体へとアップデートされているのだ。
竹下「長女も大学では水産学部に進学して、僕と同じ東京の練習船に乗ってたんですよ。『両親に洗脳された!』と言ってます(笑)。結婚して今は県外で暮らしていますが、天洋丸の力になりたいと言ってくれていて、引き続きリモートワークでSNS運用や営業をしてもらってます」
継続は力なり。いつも新鮮で確かな情報を更新・発信し続けることは、多くの人が目標に掲げながらも難しいと感じていること。天洋丸の魅力や取り組みを伝えんとする意思は、今も昔も変わらないようだ。
南串山町の漁業会社に人材が集うワケ
最後に、天洋丸を支える人材の話。
人手不足は漁業界隈に限った話ではない。あらゆる産業において高齢化や担い手不足が叫ばれており、特に漁業や農業といった第一次産業ではその影響が著しく表れている。
しかし、天洋丸は2013年から2023年の10年間において、社員数は36人から57人へと増加。さらに従業員の割合は、ほぼ60・70代のパート乗組員で構成されていた2013年に対して、2023年は20代の正社員の割合が最も多いという結果となった。規模が拡大すると共に、確実に組織が“若返り”している。
竹下「うちでIターンを受け入れ出したのが2005年ぐらいから。最初は古民家に共同で住んでもらっていましたけど、田舎は住まい環境が大事ですからね。2013年に『天鷹寮(てんようりょう)』という社員寮を建てました。僕が学生の時に住んでいた寮は『朋鷹寮(ほうようりょう)』と言って、寮や船に鳥の名前が付くことが多かったんです。それから、女性でも安心して移住・就職できるようにワンルームアパートも建てました」
暮らしやすい環境づくりは、住まい以外にも休日や働き方の見直しまで徹底。地域外から若者がIターンでやってきた際には、引越しや役所の手続きで移住当初が忙しいことを考慮して、すぐにその月から有給休暇を取得できるようにと規則も整えている。
地方で働きたい若者が「ここなら……!」と勇気を出して飛び込んでいけるだけの懐の深さや、社員を大切に想う姿勢が形に現れている。この環境づくりに投資できる船頭の舵取りにあっぱれだ。
2017年から天洋丸はインドネシアの技能実習生を受け入れ始めた。彼らは天鷹寮で日本人の社員とともに南串山町での生活をスタートしている。
竹下「実はこの建物、僕が図面を引いたんですよ(笑)。建築を見るのが昔から好きで、実習生の子たちとは“モスク(イスラム教寺院)”めぐりをしていた時期もありました。そこで見た建築も参考にしながら、『吹き抜けにして、ここは階段で……』とエクセルの図面に要望を書き込んでいって。海外の風習を取り入れることも大事だと思って、“お祈り部屋”も作りました。ニュースにもなりそうだなって意識もしましたけど(笑)」
最初に技能実習生としてやってきた2名のうち、1名は特定技能として継続して天洋丸で働くことを選択。優良事例として外務省の公式YouTubeチャンネルでも取り上げられており、天洋丸での働きぶり・南串山町での暮らしぶりがよく分かる。
また、技能実習生たちが自分たちの食文化を地域の人たちに紹介し、食を通じた交流ができるよう、サークル的に「雲仙市インドネシア料理研究会」を立ち上げた。この会の活動として、地域の祭りに参加したり、料理教室を行ったりしている。
そして、こういった取り組みから生まれる副産物も、きちんと企画へと繋げていけるのが天洋丸の強み。インドネシア料理「サンバル」から着想を得て、畑で育てた自家製唐辛子とカタクチイワシの煮干しを合わせた異文化コラボ商品「ニボサンバル」が誕生した。現在では、地元農家とも協力を得ながら生産し続けているそうだ。
根幹となるまき網漁のこと、発信によるブランディングのこと、人材に寄り添い育てる環境づくりのこと。そのどれもが天洋丸を次へ次へと動かす推進力となり、たくましく、しなやかに大海原を渡っていく様を思い起こさせる。
明るく照らす船の灯りは、天洋丸船団が進むべき針路を教えてくれるようだ。
天洋丸代表・竹下千代太さんの「ひと」の記事につきましては、以下をご覧ください。
会社情報
- 会社名:
- 株式会社 天洋丸
- 所在地:
- 〒854-0703 長崎県雲仙市南串山町丙9287-3 ( 天洋丸水産加工場・事務所 )
- Tel:
- 0957-76-3008
- Website:
- https://www.tenyo-maru.com/