いとなみ研究室

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株式会社 FUKUNOTANE

鮮魚店での経験を鮮やかに活かして。種苗業と異色のコラボレーション。「永田 豊さん」

取材・写真・文

ちょっと変わったものの見方をしていた少年

FUKUNOTANEの新たな取り組みである水産加工場場長である永田豊さんは昭和34年9月、永田家4兄弟の末っ子として生まれた。幼い頃は喘息があり割と過保護に育てられたそう。そんな豊さんだが、兄弟はみんな違うタイプで、中でも私、1人だけ特に変わってたんでしょうねと話す。

永田:小さい頃は笑点をよく観てて、オチとか分からないから、なんでこんなことを話しているのかなんて深掘りしたしたくなるような、なんか変わった子でしたね〜。中学生の頃は星が好きでよく友達と星を見に行ってました。夜、野宿してカメラで30分おきに空を撮ったりそれを現像したり。あと美術系とか好きで、美術部に入っていたり。一番はゴッホが好きで、ゴッホの本を読んでましたね〜。あんな生き方が好きなんでしょうね。燃えるような生き方が。

「燃えるような生き方」と言った言葉がすごく印象に残った。何事も前向きに全力でやりたい事はやる姿勢が今後の永田さんの未来へ大きく影響し、まさにそんな燃えるような人生を送ることとなる。

永田:高校入学時は成績が3位で入学したんですが、在学中は、勉強することは一度もなかったですね〜。高校では悪すぎて、、、ただあの頃は勉強しないことがカッコよく見えていたりした時期でもあって。だから卒業する頃には成績もビリで笑

高校卒業後は地元へ残る息苦しさもあり、約2、3年全国を転々とする事となる。

永田:行きあったりばったりで、例えば北海道で3ヶ月ラーメン屋で働いていたりとか、バイトしながらやってましたね。他には的屋さん、あとは肉体労働。ただ昔はこんな働き方がなかなか認められない時代でしたから、今でこそ珍しくないんだけど。ただ割と器用なタイプで、セールスマンもしたけど、営業成績一番になったり!基本的には料理屋さんになりたかったんですけど卵アレルギーで味見ができないからそれが致命的でしたね。

色々な経験を重ね地元に戻ってきた永田さんだが、2、3年仕事を転々としていたことから、なかなか受け入れてもらうことができなかった。そんな中、魚屋さんの社長から声をかけてもらう事となる。

魚屋さんと料理人の二刀流

永田:魚屋さんの社長から声をかけてもらいそこで働くことになり、それから4年くらいかな、昼は魚屋、夜は皿洗いをしていたんです。皿洗いはバイトが目的ではなくて、皿洗いをした後に料理を教えてくれていたからです。例えば、かつらむきとか、刺身の切り方とか。料理屋さんで学びたくて。それで手っ取り早くお師匠さんのところへ行き夕方から皿洗いをして、その後に教えてもらうわけです。かつらむきをできる料理人さんはいるけど、魚屋さんでかつらむきをできる人はほとんどいない。味はつけれないけど魚は素材オンリーで行けるから、そしたら勝負になっていくと言うか、自分の土俵だなって。

できない理由ではなくできる方法を生み出して夢を叶えた永田さん。何事も自分の捉え方一つで未来は大きく変わるのだと感じた。

独立の転機からの閉店と仲間

4年の月日が経ちスーパーの鮮魚部門の話がくる。考えることと、数字が好きな永田さんは快諾する。

永田:店長として勤務し、2店舗目まで作って2、3年してから独立しますと社長にも伝えてたので、28歳で独立しました。全く一からのスタートで。そこそこは売れてきたんだけどスーパーの時代で単独店舗はなかなか難しくて。卸や刺身なんかも作ってたけど見た目がいいのが評価されてだんだんお客さんも増えてきたんです。それで単独店舗とは別にスーパーに入ったんです。あとこの頃、女性も活躍してほしいと思っていたので、妻が今で言う、コンビニみたいな店舗を店長として出しました。

 

お店も順調に業績を伸ばし軌道に乗っていた矢先、奥様が体調を崩され店舗も閉店することとなる。ここから入っていたスーパーの閉店や、その2年後に新型コロナウイルスが猛威をふるい鮮魚店も閉店する事となる。

仲間がいないと意味がない

永田:閉店理由はいろいろあって、妻と自分だけならなんとかなるかもしれないけど、それじゃ意味のない話になるなって思ったんです。従業員のみんながいたから頑張れてたし、もちろん自分が悪いんだけどやっぱり時代の流れには逆らえないと言うか。ただ紆余曲折しながらもここまで来れて引き目は感じていなくて、もっとやれることがあると思うんです。

仲間がいないと意味がない。どんな厳しい状況になろうとも、この子たちがいたからと話をされた。自分たちがよくても、周りの大切にしてきた人を大切にできないと意味がないと真っ直ぐな目で語る姿が印象的だった。

 

社長(FUKUNOTANE)との出会い

永田:今、思うことは、みんなに美味しい魚を食べてほしいと思う。それが基本にもあったから、あと残された人生何をしようかと思った時にFUKUNOTANEの河原社長から加工場をしようと思うんだけど力を貸してくれという言葉に惹かれ、力になれるか分からないけれど、でもこの道で行きたいなって。スーパーの店長の話もあったけど、こっちの方が夢があるなと思った。これから加工場を新たにはじめるということは、一番最初の創業時の楽しみみたいなもので。

 

歳はとってるけど新しいものは好きでとにかく考えることが大好きだと語った。ただ永田さんにも苦手なものがあり、それは「ケータイっ」と、ちゃめっ気たっぷりに話された。

これから

永田:河原社長には聞いたことないけど、孫正義になれるって思う人いるじゃないですか?あんなにはなれないじゃなくて、河原社長は、自分も孫正義になれると思うタイプだと思う。だから憧れじゃなく一つの過程。小さい頃、パイロットになりたいと子供の頃の夢があってほとんどの人が諦めるけど、その中でもなってる人はいる。それと全く一緒の発想で社長はなれないものはないと言うか努力さえすればいけるよって世界の見方なんだろうなって。

社長のこんなところが好きですとはっきりと語られた。そんな社員さんがいるって素敵なことだと感じた。

永田:本を沢山読む社長で本を読んだら結構考え方とか変わったりして、コロコロ変わっているように見えるけどそれは理解が足りないだけで、いかに日々進歩して物事を考えていくかと言うことが大事で状況によってどんどん変わっていくじゃないですか。そこを理解できないとそう言うふうにしか見えないんだろうなと思う。夢の話をされるけど、やっぱり夢って大事。

 

社長の考え方や、夢の大切さを話され、何歳になっても夢は大事と語れる永田さんは活き活きとされている。他にも書ききれないほど語ってくれた永田さん。自分はできない事はない。一度決めたことは貫き通すことのできる、まさに有言実行をされる方だ。習慣化することは難しい中、自分は弱い人間だからこそ決めたらやりぬかないとすぐにやめてしまうからと。

永田:肉体的には年取っていってるけど精神的には年取ってないきがするし、好奇心もあるしあと何年かここでお世話になって魚をどうやって売っていくのか、どうやって子供達に残していくのかってのをしていければ自分の一生が有意義な一生だったと思う。そんな生き方が好きだ。

 

何事も真っ直ぐで考えることが大好きな永田さんにチャレンジし夢を持ち続けること、周りの人を大切にすることを沢山学んだ。

本を読んだりゴッホが好きな美術部にいたヤンチャな少年は今、魚を美しく見せる鮮魚業界で活躍されている、夢を叶えた大人となった。

今後もどんな夢を叶えていくか楽しみだ。

FUKUNOTANE「みせ」の記事は以下をご覧ください。

32歳で事業継承 関西出身の河原社長が島原の地で始めた新たなる挑戦

 

プロフィール

加工場場長

永田 豊

会社情報

会社名:
株式会社 FUKUNOTANE
所在地:
〒859-2411 長崎県南島原市南有馬町甲1213
Tel:
0957-85-2112
Website:
https://www.fukunotane.net/

株式会社 FUKUNOTANEのなかま

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