いとなみ研究室

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株式会社 天洋丸

「大丈夫よ」その一言に込められた優しさ – 井上 久美さんが紡ぐ、寄り添いの物語

取材・写真・文

取材

写真

「そんなたいそうなことじゃないんです〜」

取材の終盤、井上さんの温かさに助けられている人がたくさんいるのでは?と伝えた私に、井上さんは少し照れたようにそう答えた。その言葉にこそ、井上さんの飾らない優しさ、そして深い人間性が凝縮されているように感じられた。長崎県島原半島、美しい海と豊かな自然に囲まれたこの地で、井上さんは多くの人に慕われながら、日々の仕事に励んでいる。今回は、彼女のこれまでの歩みと、その中で育まれた「弱い立場の人に寄り添う」という温かな心根に触れてみたい。

父との早すぎる別れ

井上さんは5人兄弟の上から2番目、3人の姉妹と2人の弟に囲まれて育った。賑やかな家庭だったろうと想像するが、彼女の幼少期には大きな悲しみが訪れる。小学校2年生の時、父親が40歳という若さでこの世を去ったのだ。

「私が小学校2年生の時でしたね。父が亡くなったのは」

当時のことを、井上さんは静かに語り始めた。母親と5人の子供たち。突然の大黒柱の喪失は、計り知れない困難をもたらしただろう。特に井上さんの心に深く刻まれたのは、学校でのある出来事だった。

「小学校2年か3年の時、社会の授業で『お父さんの職業は何ですか』って書くのがあったんです。それが一番つらくて…」

周囲の子供たちが当たり前のように父親の職業を語る中、幼い井上さんは言葉にできない寂しさと疎外感を抱えていた。その時代、離婚や片親家庭はまだ珍しく、周囲からの無理解な視線に晒されることも少なくなかったという。

「その時代って、離婚とか片親になるっていうのはまずほとんどいなかった。珍しいんです。私だけだったんですよ、クラスで父親がいないっていうのは」

この経験は、彼女の中に「弱い立場」にある人への共感と、誰にも言えない痛みを抱える人の気持ちを慮る心を育んだのかもしれない。

習い事をする余裕もなく、学校から帰れば下の兄弟の面倒を見るのが日常だった。小学校へ行く際も、まだ幼い弟や妹を保育園へ送り届けてから登校する日々。「お姉ちゃん」として、幼いながらに家族を支えようとする健気な姿が目に浮かぶ。

家計を支えるため、故郷を離れて三重へ

 

 

中学校を卒業すると、井上さんは家計を助けるため、故郷の離れ、遠く三重県の紡績工場へと働きに出る。15歳の少女にとって、それは大きな決断だったに違いない。

「高校は、働きながら自分で定時制に4年間通学しました。正直なところ、早く実家を離れたい気持ちもありましたね。」

朝は学校へ行き、昼からは工場で働く。夜は寮生活。慣れない土地での厳しい生活だったが、そこには同じように全国から集まってきた仲間たちがいた。

「紡績工場では毛糸を作っていました。最初は原料の綿を工程ごとに分ける作業から。担当する場所は性格とかで振り分けられてるんでしょうね」

工場の仕事は決して楽ではなかっただろう。1週間の交代制で、時には夜の10時まで働くこともあったという。しかし、そこでの経験は、彼女の人間性をさらに豊かにした。

「全国から生徒が来るんですよ。北海道とか。そこでの生活は本当に楽しかったですよ」

異なる環境で育った仲間たちとの共同生活。共に働き、支え合う中で、多様な価値観に触れ、人との繋がりの大切さを学んだのだろう。

「ありえない」理不尽さと向き合った経験

4年間の定時制高校と紡績工場での5年間の勤めを終え、一度は調理師の道を目指すも、学校の指導方針に疑問を感じ半年で退学。その後、配送業社の保養所や地元のかまぼこ屋でも働いたが、そこでも彼女は理不尽な現実に直面する。

「かまぼこ屋さんでは、上司から従業員へ対しての叱責がひどくて…。それを見てるだけで辛くて辛くて…1ヶ月で辞めました」

この状況に「これはありえない」と感じた井上さん。弱い立場の人に対する不当な扱いを許せない、彼女の正義感と優しさがここでも表れている。

天洋丸との出会い、そして加工場という新たな「居場所」

いくつかの職を経て、井上さんは現在の職場である株式会社天洋丸へとたどり着く。きっかけは、お姉さんの紹介だった。

「実は元々、敦子さんは、子どもの同級生のお母さんだから知ってたんです。保育園からずっと」

最初は1人で加工場を担当していた時期もあり、「寂しくて寂しくて」と当時を振り返る。しかし、徐々に仲間が増え、現在は加工場の仲間、漁撈の仲間、そしてインドネシアからの技能実習生と和気あいあいとした雰囲気の中で仕事に励んでいる。

「インドネシアの子たちと話すのも楽しいんですよ。日本語を教えないといけないのに、逆にインドネシア語でこれなんて言うの?って聞いたりして。文化が違うから面白いです!」

言葉の壁を乗り越え、積極的にコミュニケーションを取ろうとする井上さんの姿は、実習生たちにとっても心強い存在だろう。かつて自身が経験した孤独感や疎外感を、彼らが感じることのないようにという配慮が自然と行動に表れているのかもしれない。

「大丈夫よ」その言葉がくれる安心感

井上さんの優しさは、時に厳しさも伴う。しかし、その根底には常に相手を思いやる深い愛情がある。パートさんが「もう辞める」と言い出した時も、「あなたにしかできないこともあるとよ、大丈夫、一緒に頑張ろう」と引き止めたエピソードからは、一人ひとりの存在価値を認め、大切にする井上さんの姿勢がうかがえる。

「パートさんが辞めると言い出した時に、旅行資金を貯めるっていうのはどう?って言って話をしました。そしたら、家からも近いし、もう少し頑張ろうかなって言ってくださって」

相手の気持ちに寄り添い、その人が前向きになれるような言葉をかける。それは、井上さんがこれまでの人生で培ってきた、人間としての強さと温かさの表れだろう。

現在60歳を迎えた井上さん。「あと何年、元気にここに来れるかな」と少し不安げな表情も見せたが、「天洋丸は定年70歳って聞いてるし、あと10年もあるから頑張らないとね!」と嬉しそうに話してくれた。その言葉には、天洋丸という職場への愛と、なかまたちと働くことへの喜びが溢れていた。

父との別れ、経済的な苦労、。決して平坦ではなかった道のりを、井上さんは持ち前の明るさと優しさで乗り越えてきた。彼女の生き方は、私たちに「人に寄り添うこと」の大切さを教えてくれる。そして、その温かな人柄は、これからも多くの人を照らし続けていくのだろう。天洋丸の加工場に響く井上さんの「大丈夫よ」という言葉は、きっと今日も誰かの心をそっと包み込んでいるに違いない。

 

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プロフィール

井上 久美

会社情報

会社名:
株式会社 天洋丸
所在地:
〒854-0703 長崎県雲仙市南串山町丙9287-3 ( 天洋丸水産加工場・事務所 )
Tel:
0957-76-3008
Website:
https://www.tenyo-maru.com/

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