1968年柿川家・三兄弟の三男として生まれる。町内では1、2を争うほど足が早かったと話す。小学生の頃は「ちびすけでしたと」小柄だったようだ。そんなちびすけだったの柿川さんの話。

柿川少年の幼少期
柿川 小学生の頃の記憶で一番記憶に残っているのが、3年生の時に自転車を買ってもらい、なぜか山を登ります。頂上まで。そして舗装された道があるんですけどそこをブレーキもかけずに下ったら転けて顎を3針縫う怪我をしたり、5年生の時は近くの公園で4〜5人乗りの箱型のブランコが足に直撃して骨折をしたり。その時は1ヶ月近く入院をしたので算数とか分からなくなって浦島太郎状態でしたね〜。
当時は今のようにゲーム機器などなかった時代。学校や近所の友達と、集合住宅で三角ベースやドロケイ(鬼ごっこ)など、外遊びを楽しんでいた。 道路にチョークで線を描き、野球でバットがないときは手で打つなど、当時ならではの遊び方をしていた。
中学生になり少し落ち着きを見せ始める柿川君
柿川 小学生までは父が剣道の先生をしていたこともあり兄弟3人とも、剣道をしていました。中学生になり剣道は辞め、おじに一眼レフをもらい、数ヶ月写真部に入りました。人を撮ることが多かったですよ!中学校後半は本が好きで読書をして過ごしていました。進路に関しては兄弟が公務員になった影響で、自分も公務員を目指して、兄たちも行った地元の公立高校へ進学しました。

高校へ進学し、どうにもこうにも英語が苦手だったと話す。理数系が得意と言うわけではなく、とにかく英語が苦手だから理数系らしい。そうは言いつつも英語で赤点は取ったことがないそうで、優秀だったことが伺える。部活はバスケ部に入ったそうで、その理由がまた面白い。
柿川 バレー部かバスケ部で迷って、ジャンプ力がなかったからバスケ部しました。理由は身長を伸ばしたかったんですよ(笑)バスケをしたら胴が伸びると言われたけど、とりあえず高さが出ればいいか〜みたいな理由です(笑)ただ結果は、流石に高校からバスケとなると経験者が多くて、先輩のノールックパスとか飛んでくると、もうキャッチできませんでした。それで根性論とかの問題ではなく、無理だと思って辞めましたね(笑)
入った理由も面白ければ、また辞めた理由も面白い。高校卒業間際から大学進学にかけては一苦労する事となるが、大学進学を目指し次のステップへ。
大学生へ進学する柿川さん
柿川 大学は一浪したんですが、福岡の九州産業大学へ進学して一応、商売人の息子だったんで、専攻は商学部を専攻しました。高校は成績がギリギリで入った反面大学は学力的に余裕のある方だったので、この成績なら教職員まで取れるよとのことで大学2年生の頃は教職員を目指していたけど、4年生になりここまで頑張る必要があるのか?と思い挫折しましたね。

商売人の息子だったと話す柿川さん。お父さんがスーツの紳士服の仕立て屋さん、お母さんが縫い子の資格を持っていたそう。ただ時代の背景とともに昔はオーダースーツが主流の時代だったが既製品の大量生産が可能となり家業を継ぐことは厳しいと感じ、柿川さんは違う道を選択する。大学時代に教師を目指したとあるが、アルバイトの家庭教師で生徒の学力が伸びてテストの点数が上がったことにやりがいを感じ教師を目指したいと思ったそう。この「教師の夢」は現在も柿川さんの心にひっそりと生き続けることとなる。
そして社会人へ
柿川 最初に就職をしたのはトヨタの営業でした。仕事は想像以上に厳しかったですが、やりがいもありましたよ! 7年間勤める中で、2年ごとに転勤があり、長崎の五島町、諫早、大村と勤務地が変わった。転勤が多かったため、お客さんとの長期的な関係を築くのは難しかったですけど、その分、多くの経験を積むことができました。それから仲良くしていた先輩と反りが合わなくなり31歳の頃辞めて、トヨタでお世話になっていたお客様の伝手で、お菓子問屋業界へ行くわけです。

ここに転職をしたきっかけで、この業界に入る事となった。そこで下釜さん、藤山さん、岩永さんと出会うこととなる。ただ初めに就職をしたお菓子問屋は閉店をすることとなり、当時の社長さんの繋がりで現会長と出会い3名全員でオカシノフルカワへ行く事となる。
柿川 フルカワさんも人(社員)だけ増えることになるから、結構厳しかたんじゃないかな…。あれから24年経ちます。ここまで長く続けられているのは、やっぱり合っていると言う事だと感じますね。
これからのこと
24年間オカシノフルカワに勤めている柿川さんに、将来何を思うのか尋ねていたところ、古川社長も取材に途中参戦し、色々な話をしながらの取材となった。

柿川 この前セミナーに参加して、5年間持つ企業が、60%以下で、オカシノフルカワは74年続いている。だったらもう100年企業を目指したい。70年前のやり方と今のやり方って絶対違うわけじゃないですか。同じやり方じゃない。その都度その都度にやっぱ違うことをしてきた人たちがいるわけで。そこの中の1人になれればいいんじゃないかなと思いますけどね。もちろん100年と言わず、120年とか150年になるのかもしれないですけど、問屋がどこまで続くかはわからないですけどね、とりあえず目指すは100年企業で、自分が今後30年勤めたとしたらその100年のうちの3割は占めるでしょ? 柿川ってやついたなって思ってもらえるような存在になりたいです。ただやっぱり根本にあるのは教育ということがあります。

今の年齢になったからこそ育てることへの意識の変化があったそう。幼少期の夢として「教える立場」への憧れがあったことを振り返り、その思いが現在の指導への関心につながっている。営業として売上を上げることも大切だが、最近は「人を育てる」ことに関心が向かっているそう。年齢を重ねたからこそできることがあり、特に後輩や若い世代へ人としての成長を促すための教育をしていきたいと語った。
柿川 フルカワで月刊朝礼というものをやっていて、文章を読んで感想を発表するものなんですけど、その文章は毎朝欠かさず洋平さんがラインワークスに流すわけですよ。そしたら毎日読むようになって、本を読むってその時間を確保しないとなかなか読まないじゃないですか? 片手間じゃできなあ、これ大事よねって思って、最近ちょっとまた本を読み出しました。
古川社長も本を読むイメージがあり尋ねてみると、意外な答えが返ってきた。
古川 いや、どっちかと言うと読まない方だったし、苦手でした。少し読むようになったくらいです。ちょこちょこしか読んでないですよ。僕が読めるんだったら、誰でもきるっていう押し付けというか、気持ちいうか、そういうのが僕の中にあって。いい意味の押し付け(笑)。だから毎朝文章を送ってます。5分くらいでできるし。それ読んで感想をちょっと書く。それもできないって言う人もいますけどね(笑)。
柿川 実際は5分もかからないわけですよね。その送られてきた文章に関して当番制で感想を発表するようにしててそうすれば、絶対読むわけじゃないですか? だからせざるを得ない状況に持っていくのも大事と感じています。その圧が凄いんですよねこの人(笑)。

古川 かれこれ3、4年やっていてNo.822まで行ってます。ずっと自分がやってて、この前1週間インドネシアに出張があったんですけど、1週間分まとめて、2時間の時差があるから予約配信できるようにしてました。よくやったなって言われるけど、自分の中でこれだけはしておきたくて。
柿川 1週間分作って欠かさず配信されてきていたことにやっぱりすごいなっと思いましたよ。全部に一言入っていて、「洋平さんは1週間先まで読んでるじゃん!1週間先歩いてるじゃん!」ってなるわけですよ!
古川 だから予定が入っててやれませんでしたという言い訳はできるだけしたくなくて。言い訳ばっかりしてるとその人の評価が下がるような気がするし、それはみんなに対しても思うんですよね。だからやってほしいなと! その圧が一番柿川さんに強いかもしれません。やっぱり部長だしね(笑)。

柿川 教職員の先生は無理かもしれないけど会社の中の先生にはなれる。最近はカッコつけないといけないよねって思うようになってきました。見た目のカッコ付けではなく見られるような動きをしないといけないと思う。難しいけど。背中を見せるみたいな。
古川 先生と言うキーワードはすごくいいから、それをどう実現していくかが大事だと思います。
今回終盤に社長も参加しての取材となったが、柿川さんは自然体で会話され、日頃からの信頼関係が築けているように感じた。社長は面白おかしく話されている場面もあったがそこには、愛があるからこその期待を感じた。
最後に柿川さんのポリシーでもある、化粧品メーカーの木下さんの言葉でピッと思ったらパッと行動に移す「ピッパの法則」で先生という夢をオカシノフルカワで実現し次の世代にバトンをつなぐ役割を担う存在だと感じる。
ピッパッ!