命をつなぐ仕事の中で育った、ふたりのまなざし。落水正商店を支えてきた姉妹の記憶

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命を扱う仕事の中で、変わらずそこに在り続けた人たちがいる。厳しさの奥にあったのは、揺るがない基準と、誰かを守ろうとする意志だった。その積み重ねが、いまの落水正商店をかたちづくっている。長崎へ卵を担いで運ぶことから始まった、落水正商店の歴史。

その原点は、昭和21年、まだ交通手段も整わない時代に、母(創業者の正さんの妻)が卵を背負い運んでいたいとなみにある。その後、戦争から帰還した父・正さんが加わり、事業は少しずつ形を成していった。戦地で多くの仲間を亡くし、「命があっただけでありがたい」と語っていた正さんは、仕事においても一切の妥協を許さない人だった。「失敗は許されない」その言葉は、家族にも強く刻まれていた。

左:五子さん / 右:亮子さん

次女、佐藤亮子(さとうりょうこ)さんと四女、金子五子(かねこいつこ)さんは、そんな正さんのもとで育った5人兄弟のうちの二人。厳しさと優しさが同居する家庭の中で、自然と仕事と向き合う日々が始まっていた。

「手伝い」は当たり前だった子ども時代

小学校に通う前から、家の仕事は日常の一部だった。朝は掃除をしてから学校へ向かい、放課後には卵の選別や運搬の手伝いをする。島原の市場のような場所で、大きさごとに卵を仕分ける作業も、幼い頃から当たり前のように行っていた。「小学校2年生のときに、初めて10キロの卵を抱えたのを今でもはっきりと覚えています」。そう語る亮子さんは、車に乗るのが好きで、父や運転手について回ることも多かったという。働くことは特別なことではなく、暮らしの延長にあった。しかし、年齢を重ねるにつれ、その感覚にも変化が生まれる。中学生になると、「手伝いが嫌だ」と思う気持ちが芽生えた。

女の子であっても容赦なく力仕事を任される環境に、戸惑いと反発を感じるようになる。「なんで女の子なのに、こんなことまでさせられるんだろうって」兄弟間でも、感じる不公平はあった。男の子は可愛がられ、長女と末っ子もどこか特別。その間に挟まれた自分たちは、より厳しく育てられているように感じていた。それでも、父の存在は絶対だった。階段を上がる足音ひとつで緊張が走るような、昔ながらの「父親」。しかし仕事を離れると、とても優しい人で、少しでも体調が悪いとすぐに病院に行けと気遣ってくれる優しさもあった。仕事には厳しく、生活では優しい。そのバランスが、今振り返れば愛情だったと気づく。振り返れば、その厳しさは、単なるしつけではなかった。命を扱う仕事としての「基準」を、体で覚えさせるためのものだったのかもしれない。言葉にされることは少なくても、そこには確かに、守ろうとしてきたものがあった。

「とにかく忙しい日々だった」と言いながら、離れなかった理由

高校卒業後、亮子さんはそのまま家業へ入った。本当は外に出たい気持ちもあったが、自身の生活を考えると家に残る選択をした。

一方で五子さんは一度外へ出てから、再び戻ってきた。二人に共通しているのは、「とにかく振り回された」という記憶だ。夜中の2時でも叩き起こされ、仕事に向かう。思いついたことがあればすぐに動く父のもとで、生活と仕事の境界はなかった。「正直、きつかったです。でも、不思議とついていけたんですよね」そう声を揃える。その理由は、ただ一つだった。

「父の判断は、間違いない」

その言葉の裏には、ただの信頼ではなく、「自分たちもその基準で生きてきた」という実感がある。どれだけ振り回されても離れなかったのは、そこに正しさではなく、「納得できる軸」があったからだった。その確信があったからこそ、どれだけ無茶に思えることでも、最終的には納得できた。実際に、父の考えは後から振り返ると筋が通っていることが多かった。正さんの言った通りになってきたのだ。将棋を嗜み、先を読む力に長けていた正さん。戦争を経験し、当時は学ぶことですら当たり前ではなかった時代の中で、中学校へ進学したいと隠れて勉強していたが、正さんの父は農家を営んでおり学ぶことすら許されなかった。学歴は小学校までだったが、その思考力と洞察力は、時に高学歴の人たちをも圧倒した。また、60歳を過ぎてアメリカへ渡ったことをきっかけに、さらに視野を広げていく。「もし10歳若ければ、卵以外のことにも挑戦したかった」と語っていたその言葉には、尽きることのない探究心がにじんでいた。

家族で支えるということ

当時の社員は15人ほど。障がいのある方も受け入れながら、現場は多様な人たちで成り立っていた。兄弟もまた、それぞれの立場で仕事に関わっていた。現社長である日郎(にちろう)さんは、長崎や大阪へ卵を運び、幼い頃からハンドルを握っていたという。父が残した言葉のひとつに、「最後まで日朗が姉妹の面倒を見ろ」というものがある。その言葉は、今も、姉妹の中に生きている。

誤解されても、貫いたもの

正さんは、先を読む感覚に長けていたがゆえに、誤解されることも多かった。相手が理解できている前提で話すため、伝わらないことがあった。それでも、人を助けることをやめなかった。その姿は、今振り返れば「北風」ではなく、「太陽」に近いものだったのかもしれない。強く押し進めるのではなく、信じて任せる。ただ、その光の強さが、ときにまぶしすぎただけだった。時には保証人になり、土地を貸し、事業を支える。その行動が正しく理解されないこともあったが、後になってその価値に気づく人も多かった。「今になって、やっとわかる人も増えてきました」先見の明を持つ人は、時に孤独だ。しかし、その背中を見て育った家族には、確かな軸が残っている。

今も続く、見えない対話

父が亡くなったとき、「この世の終わりかと思った」と亮子さんは語る。それほど大きな存在だった。

今でも毎朝、実家の前を通るときには、「見守ってね」と声をかける。工場に父が来ているような感覚があるという。

そして、その背中は今も二人の中に息づいている。「気になったら動かないと気が済まないんです」亮子さんは、父に似て即行動するタイプだ。全体を見て判断し、先を読んで動く。その原動力には、父の教えに加え、稲盛和夫氏の「ピンチはチャンス」という言葉もある。そして日々、名言が綴られた日めくりカレンダーに目を通しながら、自分自身に言葉をかけ続けている。迷いそうなときも、立ち止まりそうなときも、言葉がそっと背中を押してくれる。

外から与えられるものではなく、自分の内側から立ち上がる力を、静かに育ててきた。しかし、夢中になると、つい言葉が先に出てしまう。それは、裏を返せば、それだけ相手のことを考えているということでもある。「間違ってほしくない」「困ってほしくない」その思いが強いからこそ、言葉が強くなる。だからこそ、伝わらなかった経験も少なくない。そんな中でたどり着いたのが、「自分が変わるしかない」という考えだった。相手を変えることはできない。その前提に立ちながら、どうすればより良く関われるのかを考え続けている。その根底にあるのは、誰かを動かそうとする力ではなく、正さんの姿勢や姿から考えるとそっと照らそうとする力だったのかもしれない。

現場にこそ、すべてがある

二人が今、強く伝えたいことがある。それは、「現場を見ること」の大切さだ。どれだけ立場が変わっても、現場にしか見えないものがある。違う目が入ることで、気づけることがある。「忙しくても、時々でいいから現場を見てほしい」その言葉には、長年現場に立ち続けてきた実感が込められている。それは、誰でも持てる視点ではない。

厳しさの中で育ち、理不尽さも経験しながら、命をつなぐ仕事の中で育まれてきた価値観と経験。そしてもう一つ、その人たち自身が、誰かを照らし続けてきたという事実がある。その光は、今もなお、落水正商店の根底に流れ続けている。

いま、日本各地で事業承継の難しさが問われる中、長崎県においても後継者不在による廃業は決して少なくない。長い年月をかけて築かれてきた営みが、静かに幕を下ろしていく現実がある。そうした状況の中で、落水正商店という営みを受け継ごうとしている存在がいる。聡一朗さんという後継者がいること。それ自体が、当たり前ではなく、確かな価値であり、感謝すべきことでもあると二人は語る。

だからこそ、二人は願う。

すべてを自分で抱えるのではなく、時には現場に立ち、その空気に触れてほしい。そこには、数字や報告だけでは見えない、小さな違和感や、守るべき大切なものがあるからだ。すべてを自分でやるのではなく、その息づいた基準を受け取り、次へとつないでいくこと。それもまた、命をつなぐ仕事の一つのかたちなのかもしれない。

その太陽のような光は、これからも時代の変化とともに形を変えながら、人から人へと受け継がれていく。