
自然で学び、痛みを覚えるということ
長崎県松浦市今福町。「味楽きらく(あじよしきらく)」という店の原点は、何気ない日々の積み重ねの中にある。下久保直人さんは、飛島に生まれ、鷹島を経て今福へと移り住んだ。幼い頃の記憶は、ほとんどが自然の中にあり、遊ぶ場所はいつも海か山だった。鷹島の港のそばにあった母の実家に行けば、目の前はすぐ海だった。防波堤から飛び込み、岩場で魚を追い、飽きたらそのまま寝転ぶ。夏の一日は、そうやって過ぎていく。手や足に傷があるのは当たり前で、それを気にすることもなかった。

そんな日々の中で、いまでも強く記憶に残っている出来事がある。ある日、海辺で遊び疲れ、そのまま木組みのやぐらのような場所で眠ってしまった。目を覚ましたとき、膝に妙な違和感があった。
「フナムシに喰われとったとよ」
気づかないうちに、傷口にフナムシが群がり、喰われていたという。血も出ておらず、そのときは痛みもなかった。そもそも、フナムシに喰べられるなんて、そうそうある話ではない。それでも、どこか楽しそうに、笑いながら話してしまうところに、下久保さんらしさがある。どこか現実味のない話だが、本人にとっては特別な出来事でもない。そんなこともあったなあ、と笑いながら話すその様子に、当時の風景がそのまま残っているように感じる。「海や山で遊んでいれば、そういうこともある」それくらいの感覚だったのだろう。

痛みは、避けるものではなく、あとから知るもの。その感覚が、自然と根付いている。危ないからやめる、ではなく、やってみて覚える。
転ぶことも、傷つくことも含めて、自分のものにしていく。そうやって身体に刻まれてきた感覚が、いまの下久保さんの土台になっているように感じる。
野球少年、ふと立ち止まった場所

ソフトボールから野球へ。下久保さんの青春は、ほとんどがボールを追う時間だった。当時ソフトボールが盛んで、今福町だけでも9チームほどあったそう。地区の試合を勝ち抜き、いざ松浦市の試合へ。周りを見渡すと、ばっちりきまったユニフォームを着る選手の中に、下久保さんのチームはと言うと、白い体操服に手書きの背番号。それでも、負けなかった。結果は準優勝。そのまま中学、高校と進み、野球に没頭する日々。本当は、大学でも続けたかった。けれど、「野球だけしに行くなら、やりきらんばい」母の言葉だった。その代わりに選んだのが、料理の世界だった。
鍋の音と、言葉にならなかった違和感
高校を卒業と同時に福岡の中華料理店へ就職。約5年間、下積みとして働き続けた。厨房の中は厳しく、忙しく、理不尽もあった。

それでも続けてこられたのは、料理そのものへの手応えがあったからだ。しかしある日、決定的な瞬間が訪れる。注文が入るたびに、当時の料理長のため息が響く日々。その音が、少しずつ厨房の空気を重くしていった。「気持ちよく仕事できんところで、いいもんはできん」抑えていたものが、ある日ふっと切れた。帽子を投げつけ、厨房を飛び出した。正しいかどうかではない。ただ、「違う」と思った感覚に、身体が先に動いた。
後から振り返っても、その判断は間違っていなかったのだと振り返る。あのとき強く感じたのは、「料理は技術だけでできているわけではない」ということだった。

空気が張りつめていると、人の動きはどこかぎこちなくなり、言葉も少しずつ荒くなっていく。そうしたものが、知らないうちに料理や接客ににじんでいくのかもしれない。だからこそ今、店に立つときに大切にしているのは、雰囲気だ。働く人が気持ちよくいられること。無理なく言葉が交わせること。そんな空気があってこそ、料理も接客も自然なものになっていくのだと思う。「ふとした瞬間に、あの厨房のことを思い出すことがある。あのときの違和感が、いまの店の空気につながっているように感じる」と。
「やりようたい」母の一言が、道になる

料理の道を離れ、一度立ち止まる。そして、地元に戻るかどうかを考えたとき、母に尋ねた。「ここでやっていけるやろうか?」
返ってきたのは、短い言葉だった。「田舎っちゃ、やりようたい」その言葉には、説明も理屈もなかった。けれど、妙に納得してしまう強さがあった。できるかどうかではなく、どうやるか。その視点を、母はずっと持っていたのだと思う。その一言で、下久保さんは戻ることを決める。
「味楽 (あじよし)きらく」という名前に宿るもの

もともとは、母が始めた小さな店だった。うどん屋のような、素朴な形から始まった場所。そこに戻り、手伝いながら、自分なりの店をつくっていく。気楽に来てほしい。気楽に食べてほしい。けれどその裏には、もう一つの意味がある。「働く側が、気持ちよくないと続かん」福岡での経験が、はっきりと残っている。空気が悪ければ、料理も濁る。人が張りつめていれば、味も硬くなる。だからこそ、この店では無理をしない。無理をさせないことを大切にしている。
一杯のちゃんぽんに表れる“積み重ね”

取材の日、ちゃんぽんをいただいた。まず目に入るのは、その量だ。麺よりも具が多いのではないかと思うほど、野菜と魚介がたっぷり入っている。プリプリとしたイカの食感。火の通り方が絶妙で、噛むほどに旨味が出る。キャベツは甘く、全体をやわらかく包み込む。そしてスープは、クリーミーさと塩気のバランスがちょうどいい。気づけば、止まらずに飲んでいる。けれど、この一杯にたどり着くまでには、少し長い時間があったそう。福岡から戻り、下久保さんが店に立ち始めた頃、ちゃんぽんは、母の味だった。横で見ながら、真似して、作ってみる。同じようにやっているつもりでも、どうしても同じ味にならない。

注文を取りにいくと、常連さんに言われる。「お母さんに作ってもらって」その言葉を、何度も受け取った。それでも、やめなかった。繰り返し作り続ける中で、少しずつ、自分の中に落ちていく。母の味は、教えられるものではなく、染み込んでいくものだった。当時作り方を教わるわけではなく、とにかくみて学んだそう。特別なことをしているわけではない。ただ、一つひとつをちゃんとやる。その積み重ねが、味として表れている。その日々の積み重ねでようやく「母の味になったんじゃないかな」と目を細めた。

また、店内に目を向けると、隣の席には、大学生らしき4人組。「ご飯おかわり!」元気な声に、スタッフさんが笑いながら応える。「あなたはおかわりいらないの?」そんな会話が聞こえてきてなんだかほっこりとした気持ちになった。
そのやり取りこそが、下久保さんの大切にしているお店の雰囲気、そのもののように感じた。
そしてアジフライをはじめた理由

「きらく」はもともと、焼き肉とちゃんぽんの店だ。だからこそ、最初からアジフライがあったわけではない。きっかけは、地域の流れだった。
松浦といえばアジ。その中で「アジフライ」を打ち出していく動きが出てきたとき、下久保さんはふと思ったという。「やるなら、出さんばいかんやろうなって」推進していく立場でありながら、自分の店で出していないのはどこか違う。そんな感覚があった。ただ、やるからには同じことをしても仕方がないとも思っていた。「どうせやるなら、人と違うやり方で出したかった」特別に派手なことをするわけではない。けれど、自分の中で納得できる形で出すこと。その感覚は、これまでの料理の積み重ねと変わらない。

最初は「1年くらいかな」と思っていた。試しにやってみる、そのくらいの気持ちだったという。けれど気がつけば、それが7年続いている。理由を聞いても、特別な答えは返ってこない。ただ一つあるのは、シンプルなことだった。「お客さんが来てくれるけんね」求めてくれる人がいるなら、やめる理由はない。無理に広げようとするわけでもなく、やめどきを探すわけでもない。来てくれる人に対して、ちゃんと出し続ける。その積み重ねが、結果として7年という時間になっていた。

気負わずに始めて、気負わずに続いている。けれど、その中には、人に対するまっすぐさが、静かに通っている。
続けるという選択、その先にあるもの

「特別なことはしよらんよ」そう言いながらも、ここまで続いてきた理由は確かにある。無理をしないこと。けれど、手は抜かないこと。誰かのために、ではなく、自分が納得できるかどうかで決めていくこと。幼い頃に身につけた感覚。厨房で感じた違和感。母の一言。それらが一本の線になり、いまの店を支えている。そしてもう一つ、この場所で続けてきた中で生まれたものがある。それは、この地域との関わりだ。日々店を開き、人を迎え、言葉を交わす。その積み重ねの中で、自然と地域とのつながりが深まっていく。外に出て関わったことが、また店に返ってくる。

誰かとの関係性が、新しいお客さんを連れてくる。そうやって、店は一方通行ではなく、循環の中にある。
店とは、料理だけでできているわけではない。その人がどう生きてきたか、その時間がそのまま滲み出る場所だ。

下久保直人という人は、きっとこれからも変わらない。
少し陽気で、少し頑固で、でもどこかやさしい。
その人柄に惹かれて集まる人たちとの時間が、また新しい出会いを生み、店の空気になっていく。
地域とともに巡りながら、積み重なっていくいとなみ。
そんな下久保さんの生き方が、「味楽 きらく」という店のかたちになっているように感じた。
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