
海のそばで育った少年
海のそばで育った人は、海を見ると落ち着くと言います。自然豊かな今福で生まれ育った会長の副島茂さんも、その1人です。「今でも海を見ると、なんか落ち着くんですよね」そう笑って話す姿は、とても穏やかです。ただ、子どもの頃は穏やかどころか、なかなかのやんちゃ少年だったようです。秘密基地を作ろうと海の側で石を拾ったはいいものの足に石を落としてしまったり。柿の木は折れやすいから登るなと大人に言われても、つい登ってしまい、枝が折れてそのまま落下。結局、柿の木の持ち主に見つかって怒られるそんな少年でした。

今でこそ町のことを静かに語る副島さんですが、子どもの頃は海と山を駆け回る幼少期を過ごしたそうです。遊び場はいつも自然の中。海で遊び、山で遊び、時には怒られながら成長していきました。「今思えば、あの頃は自由でしたね」そんな日々の中で、少しずつ外の世界へ目を向けるようになり、やがて地元を離れて大学へ進みます。
大学で出会ったアーチェリー

大学での生活の中で、副島さんが夢中になったのがアーチェリーでした。アーチェリーは、一見シンプルに見える競技ですが、実際はとても奥深いものです。矢のわずかな曲がり、離す瞬間の指の動き、身体のリズム。そのすべてが結果に影響します。同じ打ち方を繰り返し、身体の動きを一定にする。まるで機械のように同じ動きを続けることで、矢はまとまって飛ぶようになります。「人間じゃダメなんですよ。機械みたいにならんと」
そう言いながらも、子どもたちに教えるときは、細かく言いすぎないようにしているそうです。「子どもはあんまり細かく言ってもわからんですけんね。まずは当たる感覚を覚えさせる」子どもたちの成長を急がず、少しずつ感覚をつかませていく。そんな指導の仕方は、副島さんの人柄がよく表れているように感じます。こうして大学生活の多くをアーチェリーに打ち込みながら過ごし、やがて卒業の時期を迎えます。その頃、副島さんは地元へ戻ることを決めます。そしてそこで、人生の大きな舞台となる仕事に出会うことになります。
厳しくも、使命感を持って務めた役所の仕事

大学卒業後、副島さんは地元に戻り、そこから市役所の採用試験を受けます。しかし、その道のりは決して簡単なものではありませんでした。100人以上が受験する中で合格はわずか数名程でした。何度か挑戦を重ね、3度目でようやく合格します。こうして始まった役所生活は、想像以上に忙しいものでした。今のようにパソコンがある時代ではありません。資料作成も計算もすべて手作業。電卓やそろばんを使いながら、膨大な数字を一つ一つ処理していきます。朝は早くから出勤し、夜遅くまで仕事。土日もほとんど休めない日々が続きました。「今だったらパソコンで一瞬でしょうけど、全部手計算でした」それでも、そんな忙しい毎日の中に、ささやかな息抜きもありました。
土曜日の小さな息抜き

忙しい日常の中で、息抜きも時には必要です。役所の仲間たちと、向かった行き先はパチンコ屋さん。穏やかな印象の副島さんからその話を聞いたとき、「そんな一面もあるんだ」と副島さんの意外な一面を感じました。けれど、そんな一面もまた副島さんの魅力で、そのギャップがどこか微笑ましく感じられました。「飲みに行くより早く帰れるけんですね」1時間ほど息抜きをし、軽くご飯を食べて帰る。それが当時のちょっとした楽しみでした。忙しい仕事の合間の、ほんの短い時間。それでも、そうした時間があることで、また次の週も頑張ろうと思えたのかもしれません。しかし長い役所生活の中では、体に大きな出来事も起こります。
45歳のとき脳梗塞を経験

ある日、体調不良が続いたため病院を受診しました。医師からは「入院して詳しく検査をしましょう」と言われ、そのまま入院することになります。病室のベッドで食事をとっていたときのことでした。箸を持ち、ご飯を口に運ぼうとしたその瞬間、突然意識がなくなり、そのまま倒れてしまったのです。幸い、すぐに処置が行われたため命に別状はありませんでした。月日は流れ、ある日食事をしていると、突然、味覚と嗅覚がわからなくなってしまったそうです。「今も味はわからんですね。温かいか冷たいか、食感くらいです」そう淡々と語りますが、その経験は決して軽いものではありません。当時どんな思いだったのかを尋ねてみると、少し意外な言葉が返ってきました。「なくなってしまったものは、どうにもできない。仕方がないと思った」その言葉を聞いたとき、副島さんの前向きさを強く感じました。もし自分だったら、味覚や嗅覚を失うことを悲しく思ってしまうかもしれません。それを静かに受け止め、「仕方がない」と言い切る姿に、芯の強さのようなものを感じました。その後、副島さんは仕事に復帰し、役所職員として長い年月を過ごします。そして60歳で退職し、ひとつの区切りを迎えました。ところが退職後、思いがけない形で再び声がかかることになります。それが、今福のまちづくり運営協議会でした。
今福のためにできること

「まちづくりの会を作りませんか」そんな話が舞い込んできたのです。ちょうどその頃、副島さんは自治会長と振興会長を務めていました。そこにまちづくりの話が持ち込まれ、「補助金もあるならやってみようか」という流れで、少しずつ動き始めることになります。これまで、町で出た課題は市へ要望として提出してきました。しかし行政にはさまざまな調整があり、すぐに物事を動かすのが難しい場合もあります。そこで、副島さんはこう考えました。「もしまちづくりの活動として予算がつくのであれば、自分たちで動くことで今福町の課題解決の近道になるのではないか」。そんな思いが、まちづくり運営協議会を立ち上げるきっかけになりました。とはいえ、まちにはすでにさまざまな団体があります。「既存の団体の邪魔になったらいかんですけんね」だからこそ、慎重に進める必要がありました。「プレッシャーかけてもいかんし、どうやって協力してもらうかですね」これまで長く地域を支えてきた活動を大切にしながら、その間をつなぐような形で町づくりを進めていく。副島さんは、そんな関係づくりを何より大事に考えていました。
まちを良くしたいという思い

副島さんが考えていたのは、ただ一つ。まちを少しでも元気にすることでした。今福では、昔に比べて店が減り、バスも減り、暮らしの環境が少しずつ変わっています。特に高齢者にとっては、移動そのものが大きな課題です。バスに乗るにも大変。駅まで行くのも大変。タクシーもすぐには来ない。「そういうことを、今福でも考えていかんばいかん」行政に要望するだけでは、細かな課題まではなかなか届きません。「せっかく補助金があるなら、自分たちでできることをやろうと」それが、まちづくり運営協議会の原点でした。
海の記憶と、これからの町

もちろん、すぐに大きな変化が起こるわけではありません。それでも副島さんは、静かに言います。「今福がよくなっていけばいいな、という思いですよ」少年の頃、海と山を駆け回っていた今福。大人になり、役所で働き、まちを見守るようになった副島さんの人生は、ずっとこのまちとともにありました。そして今も、海を見ると落ち着くと言います。きっとそこには、秘密基地を作って遊んでいた頃の記憶も、柿の木から落ちて怒られた日のことも、すべて重なっているのでしょう。まちづくりの会長という肩書きの奥には、そんな少年の面影が、今もどこかに残っています。
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